「旭川」の命名由来 旭川という自治体名は、市内を流れる忠別川をアイヌが「チュクペッ」と呼んでいると和人が聞き取り、それを「チュプペッ」(cup-pet:太陽、川)、転じて「日が昇る川」と解釈して1890年(明治23年)に命名されました。川の街、旭川ならではの命名で、川はこの地に様々な富をもたらしてくれました。 近文山から国見 岩村通俊らが近文山から国見を行い、上川原野の地に可能性を見いだし、再び「北京」の設置を建議した。 開村 9月20日、旭川・神居・永山の3村が設置。 翌年、屯田兵の入植や稲作が始まった。 第七師団移駐 旭川に第七師団が移駐すると、全国各地から人が集まり、街を大きく発展させた。日露戦争(1904−1905年)への派遣も旭川から行われた。 明治33年(1900年)に町へ改称し、大正3年(1914年)の区制施行を経て、札幌・函館・小樽・室蘭・釧路と同時に市へ移行した。この年の人口は約6万人で、北海道第4位であった。当時の庁舎内窓口業務は、パソコンを始めとする機械類などはなく、すべて人と紙による手作業だった。 第1回慰霊音楽大行進 第七師団ラッパ隊、旭川師範学校、朝日小学校、旭川市民管弦楽協会、合同酒精音楽隊など10団体約200人が参加した。 今年90周年を迎える現旭橋が完成した。高欄の両正面には「誠」という文字を中心に、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の軍人勅諭が掲げられた。橋の真ん中には路面電車も走っていた。 終戦直後 終戦直後、引き揚げ者らによる露店が開設され、食糧難インフレが続く市民の生活を支えた。師団通は平和の願いを込めて平和通となった。 北海道開発大博覧会 開村から60年。常磐公園、石狩川河畔、護国神社内が会場となり、7月15日から8月23日までの40日間で延べ51万人来場。戦後復興の契機の一つとなった。 3代目旭川駅完成 現在の旭川駅の1つ前となる3代目旭川駅が完成。地下に旭川ステーションデパートを持つ民衆駅となる。駅が新しくなり、駅前の開発が盛んに進むようになる。 旭山動物園開園 今年55周年を迎える 旭山動物園が開園した。この頃、人口は約29万人で北海道第2位となった。 平和通買物公園誕生 今年50周年を迎える買物公園が誕生した。駅前の幹線道路が、「人間のための道路」として日本で初めての恒久的歩行者専用道路となった。 開村から100年 開村から100年。全国から著名なまつりを15団体招へいし、3日で延べ69万人の観客動員数があり、大きな賑わいと経済効果があった。 北彩都あさひかわ完成 旭川駅周辺地区の約85.5haを整備・拡充し、豊かな自然と都市機能が調和する中心市街地が完成した。 2022年、市制施行から100年。旭川市では記念式典や野外フェスティバルなどのイベントを実施。また、この年から「市民の日」を設け、市内のいろいろな場所でワークショップやスタンプラリーを開催し、もっと旭川を知ってもらう年とする。次の100年に続く「ワクワクするまち・旭川」がスローガン。 新庁舎完成 2023年11月に、旭川市新庁舎が完成。市民と行政の接点として発展してくことが期待されている。 リーダーシップ 日本最北端の中核市として、地域をけん引する新たな価値を創り上げ、一人一人が幸せを実感できる旭川の実現。ワークライフバランスの実現、環境問題、ゼロカーボンなど、国際的な目標とも歩調を合わせて進む。 どんな旭川が見えてくるだろう。 意外とすぐにやってくる約30年後。今小学生の子ども達は働き盛りの大人へ成長し、今働き盛りの大人たちは、ゆっくり人生を振り返る。今、やっていることが正しかったと胸を張れるように、今この時を歩もう。 きっと、100年後もすばらしい旭川のために 明治の開村から、激動の昭和を経て令和の時代となりました。旭川市は、今大きな転機を迎えようとしています。世界中の考え方を変化させた新型コロナウイルス感染症対策、ゼロカーボンや地球温暖化への取り組み、経済や少子化問題など抱えている事柄は旭川市内だけではなく、国や世界レベルと同じものになってきています。北海道の一都市という立場から、世界の未来を見つめる存在になることが求められているのかもしれません。私たちにできることは小さいかもしれませんが、そのひとつひとつの取り組みが、きっと100年後に花咲くことを夢見て、そしてこれからを担っていく子孫達へのメッセージとして残るようにしたいものです。